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聖ゴデフリド司教    St. Godefridus E.               記念日 11月 8日


 洗礼者聖ヨハネ誕生の次第はルカ聖福音書に詳かであるから、ここに贅するまでもないが、、聖ゴデフリドも同様に、長い間子なきを憂えた両親が、涙の中に熱烈な願掛けをしてようように恵まれた天主の申し子であった。その上聖寵に充ち満ちた点でも頗る洗者聖ヨハネに似通い、天主が特別に彼を寵愛加護し給う徴は既に幼少の頃から認められたという。
 それはさておき彼は1070年フランスのソアソンに生まれ、学齢に達するやベネディクト会の有名なサン・カンタン修道院に預けられて教育を受ける事となったが、一度主と共に在る平安と幸福とを味わったゴデフリドは、いつまでも之を失いたくないものと思い、父母の同意を得て修道者となり、全く我が身を天主に献げた。
 25歳を迎えるや、学徳共に秀でた彼はいよいよ叙階の秘蹟を受けて司祭となり、次いで長上の命令によって病者及び修道院執事の役を勤めたが、その間に手腕を認められて今度はノージャンのベネディクト大修道院の院長に選ばれるに至った。
 名こそ大修道院と呼ばれるものの、当時そこには僅か6人の修道者した居なかった。そしてその一事からも察せられる信仰に冷淡な時代精神の感化を受けて、その人々の修道に対する熱情も余程衰えているようであった。そこでゴデフリドは之が刷新を思い立ち、熱心に祈り、厳しい苦行をし、率先して改革の実を挙げようと努めた。
 その善き影響は思いの外早く現れ。弛緩頽廃していた修道者の精神と意気とは、間もなく見違えるように旺盛となった。それはいわば枯れ木に花を咲かせたようなものであった。人々はこの奇蹟的革新を成就したゴデフリドに舌を捲いて感嘆したが、その成功は彼が口を以ての訓戒よりも、身を以ての実践によって勝ち得たものであった。
 ゴデフリドの名声は今や天下に隠れもなかった。1104年ノージャンに程近いアミアン市の司教が没するや、同教区の聖職者信徒は一致してその後任に彼を推す事とし、修道院まで迎えに来り、行列歓呼して之をアミアン司教館に送り込んだ。彼は寧ろかような栄職に就くことを望まなかったが、天主の思し召しと認めて之を受諾し、その重任を辱めざらん為熱心に主の御助けを求め、さていよいよアミアン市に乗り込む時は裸足で歩行したという。謙遜の状、以て見るべきである。
 司教となってからも彼は決して思い上がらず、峻厳極まる克己修道の生活を続けた。そして大修院長にも心がけた貧民病者救済等の慈善事業に、今は全力を挙げて当たった。1106年大火災があって全市殆ど灰燼に帰した時など、彼はどれほど多くの人を救い、どれほど多くの人に恩恵を施したか知れない。それにも拘わらずアミアン市民は、後日この恩人に報いるに仇を以てする非道を敢えてした。それは彼等と権勢ある公爵インジェルラムとの間に紛争が起こった時の事である。ゴデフリドがその調停に立ったが、正義を重んずる彼は市民側の無法な要求にどうしても同意する事が出来なかった。すると市民は昔日の恩も忘れ果て、彼に様々の侮辱讒言を加え、之を非難攻撃して遂に一時司教が町を去らねばならぬまでに苦しめたのである。
 1114年亡命のゴデフリドが身を寄せたのは、シャルトルーズの修道院であった。彼はそこに隠れて忘恩のアミアン市民の上に主の御祝福を祈り、その罪を償う為苦行を怠らなかった。そして一方かような事態を引き起こしたのは自分の不徳の致す所と、司教辞任を願い出たが、ボーヴェイの大会議に列席した司教達は之を却下し、却って今一度アミアン市に帰るよう彼に勧めた。そこでゴデフリドも気を取り直し、身を犠牲とする覚悟で帰任したが、又種々の苦しみに逢うこと約一年、1115年11月8日、平和にして尊い大往生を遂げた。
 ここに於いて司教に辛かったアミアン市民も漸く目が覚め、深くその罪を後悔するに至ったが、正義なる天主の懲らしめの鞭は後年彼等の上に下らずにはいなかった。それは今なお歴史にも書き残されているアミアン市の様々な不幸災厄に外ならない。

教訓

 我が身に仇なすアミアン市民の為に、却ってその罪の赦されん事を祈り、且つ之が償いの苦行を献げた聖ゴデフリドの寛大さは、十字架上から敵の為に祈られた聖主に似て、飽くまでも人の心を動かさずには已まない。我等も及ばずながら聖人に倣い仇に報ゆるに恩を以てするよう努めよう。そうすれば相手の「頭に燃炭を積んで」その改心を促し得ると共に、「我等が人に赦す如く我等の罪を赦し給え」という主祷文の聖句により。わが罪を赦される恩寵をも確実に得る事が出来るのである。